Life in the fast lane

ここ1年で、色々なことがクリアになってきた。今まで、本当に無責任なことも色々したし、色々な人たちにそれなりに迷惑もかけて、人間死にたくなる瞬間もあるよなっとも思った。けれど、これが人生なんだなって、最近凄く純粋に受け入れられるようになった。

昨日旧友と飲みにいった。本当に偶然な流れで。でも、多分それはment to beなんだろう。きっと、昨日話さなければならなかった。こうやって、もう4年は一緒にいる友達と話すと、自分の変わった部分、変わらない部分を実感する。deep, deep inside me. これから人生どうなるのだろうと、前よりもはっきりと描けるようになったし、逆に恐れることもなくなってきた。I don’t need a flash as life. I will be satisfied only with my pleasure in creation. それが客観的にどんな人生でも良いと思う。主観で生きたい。そして、主観で生き抜けるくらいの確固たる軸が欲しい。

大エルミタージュ美術展

行ってきました、大エルミタージュ美術展。皮肉にも、先日落とされた企業が主催している美術展でした。私はゴーギャンの大ファンだから、それ見たさでフラフラと友達と一緒に行ってきました。ぶっちゃけ、大トロ3つと残り全部かっぱ巻き、みたいな美術展だな、と思った。ルノワール、ピカソ、そしてゴーギャンの作品には本当に圧倒された。だけど、それ以外の作品は結構普通な感じのばっかで、その魅力を見出そうとじっとみつめるだけで色々と疲れてしまった。

そうそう、そんな中世の絵の中で(中には宗教画もあった)一番印象的だったのが、名前を忘れてしまったんだけど、多分ガブリエル・フォン・マックスの『落ち込んで』。心に響いた。これは舞踏会から帰ってきた若い女性がベッドの上に座って、床にはハンドバッグやヒールを投げ出して、嘆き悲しんでいる様子の絵。解説によると、「人生の儚さや虚しさをなげいている」とか、「いつまでも若くない自分を悲しんでいる」とか書いてあったと思う。以下の点が良かった。
・色使いがコンテンポラリーで良い。淡い色使いが、ゆらゆらする輪郭線の上で輝いていた。
・コンセプトが良い。特に今の年代の私なんかは、激しく同意できてしまう。

こうやって多くの絵画を見ていて、その横の解説に「1485年」とか書いてあると、人間の人生の儚さと芸術の息の長さを思い知る。その絵を見ている時点で、それを描いた人もモチーフになった人も生き物も、みんな死んでいる。そして5世紀も後に、日本という異国の地で、その絵画の前に立って影響を受けている自分がいる。そしてまたそんな自分も、かつての画家達のように時代にのまれ、もがき苦しみ儚い夢を見て、気が付けば散っていくんだろう。人間の人生は儚い。それをどうとるか。half a glass left/ only half a glass leftととるか。それで、時代ごとの絵の描き方も変わっている。

人間は、精神の歴史の中に生きている。

大エルミタージュ美術展は24日までらしいので、まだ行ってない人はお早めに♪

社会貢献の話

社会貢献について考える必要があったから、考えてみた。

前提として、22歳にして社会貢献なんて語れない。現時点において、自分が今/将来、どんな力や経済力を持ちえて、それによって社会をどう変えられるかなんて分からない。強いて言えば、今の私に社会に貢献したい気持ちもなければ、社会をどうしたい、という気持ちもない。そういった気持ちや考えは、今後社会に出て働き、家庭を持ち、社会とより密接に関っていく上で見つかるものだと思う。だから、常に語り続けて自分に何ができるのか、求め続けながら生きて行きたい。
ただ持論として、順序としては「社会云々とは関係ない、個人的な夢があって、それに向かって走り続け、成功した暁には何らかの形で社会に還元したくなるもの、と思っている。(この考えが、今後変化する可能性も十分にあるだろうが)つまり、最初の段階での私のドライビングフォース(私の活力の原点になっているもの)は社会的貢献ではなく、私個人の身勝手な夢=自己表現=自己満足である。よって、現時点で明確に「自分は何で社会に貢献し、社会をどうしたい」とは言えない。

…と偉そうなことを書いたけど、よく考えたら、いや、そんなことないよって。多分、社会に対して夢や希望、様々な問題提議、人間性の描写とか色んな面で問いかけていくクリエイティブワークをして、社会の人間に驚きや爆笑、感動を与えたい。、といかにも抽象的な社会貢献の展望がたちました。